【穏田の水車(おんでんのすいしゃ)】
穏田は現在の明治神宮のあたりになりますが、その昔は江戸の郊外でした。
これは水車小屋が主体の絵ではありますが、水車から溢れんばかりにこぼれ落ちる水がいきいきと描かれ、北斎の芸術を遺憾なく表しています。籾をかつぐ農夫二人、流れ水で米をとぐ農夫、亀の子をもつ子供。これらの人物が遠くに望む富士山と千変万化する水流の動きとともに、心地よい田園の風景を作り上げています。
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水車から溢れんばかりにこぼれ落ちる水がいきいきと描かれています。
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桶を持つ農夫と子供が当時の庶民の生活を伝えています。
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遠方でありながら存在感のある富士山。
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摺り師の絶妙なぼかしの技術で表現された画の際の空は先に広がる奥行きを感じます
葛飾北斎(かつしか ほくさい)

宝暦10年(1760)〜嘉永2年(1849)
19歳の時、当時の似顔絵役者絵の第一人者だった勝川春章に弟子入りし、翌年、の画名で浮世絵界にデビューしました。師の亡くなったあと、北斎は勝川派から離れ、京の琳派の流れをくむ俵屋宗理の名を継ぎ、町絵師として活動を始めました。宗理として3年ほど活動し、北斎と名乗りはじめたのは38歳の頃。40代後半に読本の挿絵の斬新な表現が評判となり、50代になると門人の数も増え、葛飾派として一派を作り上げるまでになります。そして北斎の名を不動のものとした『富嶽三十六景』を手がけたのは、70歳を過ぎてからでした。90歳の頃、「あと10年、いや5年あったら本当の画工になれるのに」という強烈な言葉を残しています。
富嶽三十六景
題名のとおり、全図に富士山のある風景を描いたシリーズ物で、葛飾北斎の代表作にとどまらず、浮世絵風景画の代表作ともいわれています。はじめ、三十六図が刊行されましたが、好評のため十図が追加され、計四十六図が刊行されました。当初の三十六図を「表富士」、追加の十図を「裏富士」と呼びます。富士山への篤い信仰は今と変わらず人々の間にあり、当時、集団で富士山に参拝する「富士講」が盛んに行われるなど、こうした社会背景のなかで北斎は『富嶽三十六景』を描き、爆発的ヒットとなりました。