| 額なし | 額あり(木製枠アクリル) | 額あり(全面アクリル) |
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関から6キロ。これは左手にそびえる筆捨山を眺める街道の茶屋を描いています。
もとは岩根山の名がありますが、あまりの風光の美しさに、室町時代の著名な画家であった狩野元信でさえも力及ばず筆を投じたという伝説から筆捨山と呼ばれるようになりました。筆捨山は岩塊の合間に古松が生えた美しい山で、広重はかなり写生的に描いています。右手の茶屋で茶を飲みながら景観を楽しむ旅人や街道を歩く農夫の姿がこの絶景の素晴らしさをより引き立たせています。
寛政9年(1797)〜安政5年(1858)
江戸八代州河岸の定火消同心、安藤家の長男として生まれた広重。13歳の時、相次いで両親を亡くし同心職を継ぎますが、幼少の時から絵を描くことを好み、歌川豊広の門下となったのが15歳の頃。初期は美人画や役者絵などを描き、1831年頃に発表した『東都名所』シリーズが広重を一流の浮世絵師の地位に押し上げていきました。透視図法を取り入れた画面構成、遠近の対比、広重ブルーといわれる深い藍色の色調やぼかし摺りにも成功しています。そして広重の代表作、1833年頃に刊行が始まった『東海道五十三次』は、浮世絵史上最大のヒット作になりました。晩年には江戸への思いを込めた一大連作『名所江戸百景』に取り組み、好評のために百景を越え、百十五図が刊行されました。
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